文藝同人誌 『八月の群れ』 公式ブログ

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十年目

 

   十年目       

                野元正

 

「十年が経ったわ」

 女は言った。男も早いもんだな、と心のなかでおもったが、言葉にしなかった。

月光が女の黒髪を艶やかにうねらせる。月は中天から少し東にある。

「あきた?」

男は、何に飽きた? と訊かれているのか、わからなかった。女にまだ十分未練があった。しかし、女がこのごろ、少しわがままになったような気がしている。

かつては京都の町を一日中歩いても、

「いくら歩いても疲れないわ。あしたの朝まで歩いていましょうよ」

なんて言って男の心を暖かくさせた。

「あまり歩かないつもりでヒールの高い靴を履いてきたわ」と、今は京都を歩くことが好きな男に平気でいう。確かに女は背が高く、足もすらっとしている。ハイヒールとタイトスカートが似合う。でも男は最初の頃、そんなにおしゃれしてどこへ行くつもりだい? とからかった。そのせいか、女は普段着のような格好で来るようになった。男は女のTシャツ姿が好きだった。

近ごろ電話の最中に突然、

「私の言ってること、聞いてくれてるの?」

 と激高することが多くなった。男は電話の向こうから聞こえてくる、言葉の弾丸にたじろいだ。

男も男で荷物を持つのが嫌いな女のために、「持とうか?」と声をかけることをいつの間にか忘れている。そう言ったとき、振り返る女の横顔が気に入っていたのに……。女の前で他の女との思い出を話題にして、「最低ね」と言われても平気になっていた。

 

「今夜どうする?」

「帰るわ。だって寒いもの」

 女はそう言って男のコートのポケットに手を突っ込んできた。冷たさが男の手から温かさを奪った。男は全身で暖かくなりたいとおもっていたのにあてが外れる。その獣めいた気持ちを悟られまいと、潜り込んできた女の手にそっと暖かい手を添える。女はさり気なく手を引いて男の手を外した。それって、ごめん、わたしも……、でも今夜は……ね、という軽いいなしであろうか。

 冬の月を観よう、それが今夜、男が女を誘った理由だった。男にとっては経営する建築設計事務所の決算の目途もついてほっとした時期でもあった。女は夫の出かける日がいいとか、春の装いがどうだとか、と言いたげだったが、月は待ってくれないよ、と無理強いした。秋の紅葉、初夏の桔梗など季節毎に訪れた東福寺の山門は、月光に逆らう闇になお一層黒々と浮かび上がっている。冬の月光は空気を凍らせる力があるのか、二人の足音さえ、ひたひたと乾いた音を立てた。

 

 女とは、売れない画家が主宰している絵画教室で知り合った。仕事で設計意図を客に説明するパースをもっとうまく描きたいとおもったのがきっかけだった。女はボタニカルアートのように花や実を描くのが好きだった。そんな絵は嫌いだ、絵じゃない、と男は内心おもっていたが、口には出さなかった。

 ふと、なぜか、野坂昭如の『火垂るの墓』が原作の絵本の一場面が、画像となって浮かんだ。空襲で六甲山の麓まで焼け野原となった神戸。黒煙にけむる石屋川の畔に御影公会堂がぽつんと焼け残っている。三両連結の阪神国道電車も燃え尽きて立ち往生していた。

でも、その絵は嘘なんだ。現実とは違う。公会堂の東に接して今もある、迷彩を施されたNTTのビルは焼け残ったという。絵本は空襲の激しさとその被害の甚大さを訴えるためにNTTのビルを絵から省いた。そう、そのビルがあったら、絵は台無しさ。男は花びらや葉の形を正確に描くのは、絵画ではないとおもっている。何処かを省いてほしいともおもった。女は飽きもせず花びら一つひとつを、葉一枚いちまいを丁寧に描いた。

 男は考え方は違うけれど、その執念のようにただ見たままを正確に描こうとする女のひたむきさに、少し怖さも感じながら惹かれた。もちろん、自分には妻子がいる。女は、子どもはいない、と話した。

「あなたが設計したところへ行きたいわ」

 男には引っ込み思案のところがあったが、女はそう言って、うまく誘ってくれた。

 

十年間、ふたりはひたすら会った。初めは会う理由なんていらなかった。女は日記をつけていて今夜は何回目の夜だ、とも言った。初めて泊まった夜は大雪だった。朝早く起き出して雪原に足跡を付けに行った。雪を被った樹樹の煌めきにふたりの未来は輝いているようにおもえた。

何百何十回と数えて、今夜は何回目なんておもいたくないと男はおもう。たくさん会った。それでいい。舞台もどこでもよかった。

女は場所も記録し、行った先のパンフレットや入場券などをクリアファイルに整理しているというが、決して誰にもわからないところに隠しているから安心して、いずれ十年経ったら処分するわ、と言っていた。

男も女もふたりのことは墓場まで秘かに持っていくことにしていた。このことで誰も悲しませたくなかった。ふたりは充分過ぎるぐらい周囲に注意を払った。携帯電話のやりとりは即刻削除した。互いに都合が悪くなれば、会話の途中でも容赦なく切った。手紙は決して出さない、ふたりの写真は決して撮らない、と取り決めていた。

十年のうちで、一度だけスカート姿の女がとんでもないことを言い出したことがあった。

前の日からずっと一緒にいた後、女の家に近い一駅前で電車を降りて送って行ったときだった。今日と同じ二月だったが、全くの闇夜だった。寒さが足下から這い上がってくる。ふたりは肩を寄せ合って歩く。

突然、誰とも出会うことのない闇が詰まった横道に、女が男を誘い込んだ。

くるっと、腰を九十度に曲げて民家の暗い塀にに手をついて後を向きになった。

「どうしたの?」

 男は察していたが、訊いた。男も女の気持ちに刺激されて次第にはやる。

 次の瞬間、民家の窓に明かりが灯った。

 闇に白く見えた女のうなじが灯に色褪せた。

 

 東福寺からバス通りへの道は、甍が光る小さな黒い門が続く塔頭の街を過ぎてやがて、両側に仕舞た屋が軒を連ねる。まだバス道までだいぶ遠い。

月光は森森と降り注いでいる。光が跳ねる道は濡れて見えた。ふたりは言葉を失って、凍え乾き始めている。女は男の手から温かさを奪い、男の心を凍てつかせた。

「しばらく会わないでみる?」

ついに男が予期していたことを、女が口にした。わたしから絶対言い出さないわ、別れるなんて、つきあい始めたころからよく言っていたのに……、十年目で言った。

光る道を黒猫が横切った。本当は黒猫であったかはわからない。月光がそう、男におもわせた。男は立ち止まって猫の後を目で追う。猫は道を渡りきると、ふたりの様子を窺うように振り返り、光る目を向ける。

男は女に応えないでまたゆっくり歩き出した。

「ねえ、どうなの? 返事をしてよ」

 女の声が後から聞こえた。

「ああ……考えておくよ」

 男はちょっと邪魔くさそうに言った。

 細い道の交差点を右に曲がると、小型ダンプや工事車両が止まり、多くの黒い影が月光を背後から浴びて動き回っていた。

「ここは通行止めです。まっすぐ行ってください。次の路地で曲がってください。少し遠回りですが、お願いいたします」

 赤い点滅の誘導棒を持ったガードマンが寄ってきて告げた。ふたりの行き先も聞かないで遠回りだとわかるもんか、と男はおもったが、例によって黙っていた。防寒服で着ぶくれした彼のヘルメットの下の顔は、意外と若い。学生アルバイトかもしれない。

「バス道にはこっちが近いの。急いでいるの。あそこをちょっと注意して抜ければいいでしょ? 通してくださいな」

 女は男を責める、例の電話の口調で点滅を繰り返すコーンとコーンを仕切ったバーと民家の間の隙間を指さして言った。

「いや、危険ですから……、監督さんはオーケーせんですよ」

 ガードマンも責務に忠実だった。

「どうしたんです?」

 男は訊いてみる。

「この辺は古いガス管なんです。ときどき、車の重さでおれるんス。今夜中にやってしまわなきゃならんのです」

 小型のユンボがダンプに掘削した土を積んでいる。心なしか辺りにガスの臭いがする。

 

 月は中天にかかっている。

「遠回りします」

 男は言った。その言葉と同時に、女は月を仰いだ。白い顔がさらに青ざめ、唇をきりっと結んだのがはっきり見える。

 男は女に話もせずに交差点に向かって歩き始めた。

「どうして? もう少しで通れるところだったのに……」とまた女の声が追いかけてきた。

かまわず歩いた。月光を受けた影法師が短くなりつつある。

「急がなくてもいいじゃないか。もうこれっきりかもしれないのだからさ」

 男は振り返り、逆光で表情がわからない女に言った。

「電車がなくなるわ」

 女の声が顔の影から聞こえた。

「かまわないじゃないか。どこかに泊まればいいさ」

 男が言うと、女が首を振った。揺れ動く黒い影を月光が白く縁取る。

 遠くからダンプに土を積み終えた合図の警笛が聞こえた。

 男は仕方なく歩き出す。寒さがつま先から這い上ってきた。

女の影が男の横に並んだ。もう一度女の手がコートの中にさし込まれ、男と手をつなごうとしてさ迷った。

 月は中天を過ぎた。

                 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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by hachigatu_no_mure | 2014-04-06 20:31 | 小説 | Comments(0)