文藝同人誌 『八月の群れ』 公式ブログ

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カテゴリ:小説( 3 )

涼しくなる話を一つ。

八月の群れ同人の葉山ほずみです。

先週の暑さはすごかったですね。
梅雨明けは暑くなるとのことですが、今年の暑さは大変なものでした。
みなさんへ暑中見舞い代わりの涼しくなるお話を一つさせて頂きます。

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昨年末の、ショッピングモールに飾ってあるポインセチアが撤去されることの話です。

 毎年の恒例行事である年末の挨拶のために、取引先の部長が来社することになっていました。

 部長は五十代半ばの男性で、小柄なわりにがっちりした体躯をした人でした。

 彼は約束の午前9時半少し前に現れました。

 いつも豪快に笑う四角い顔は心なしか茶色く、いつもシワなど一つもないジャケットの背中には、細かなダーツが出来てました。

 その日の様子は初めて見るようなものだったので、まさか体調でも崩されているのだろうかと思ったほどです。

 けれど、すぐに一つ思いつきました。

 部長は東京都大田区に自宅があるので、前日から泊まらずに当日移動したのではと考えたのです。早朝の新幹線は疲れるものです。ジャケットも脱ぎ忘れたまま座席に座って寝てしまったなら、シワの説明もつきます。

「今朝は何時ごろご自宅を出られたのですか?」

 そう尋ねられた部長は疲れた笑顔を向け、首を振りました。

「昨日、神戸には着いたんですよ。着いたんですけど――」

 部長は少し首をひねりながら話し始めました。


 年末だからか常宿のビジネスホテルが取れなかったんですよ。どこも一杯でね。さすが神戸は観光地だな、なんて感心しながらいつもと違うホテルに泊まったんです。どこにでもあるビジネスホテルですよ。

 ホテルに入ったのは夕食が終ってからですから、8時過ぎたころですね。一人で三宮で飲む気にもなれず、というか、忘年会シーズンでどこも混んでましてね。結局、北野坂にある蕎麦屋で天そばを食べて、瓶ビールを一本飲んだんです。コンビニで缶ビールを買って、ホテルへ向かいました。

 ホテルに着いて缶ビールを一本飲んで、そのままベッドに寝転がってテレビを観てました。いつのまにかシャワーも浴びずに寝てしまっていたのです。点けていたテレビは消えてました。もしかしたら、無意識に自分で消したのかもしれません。

 ベッドサイドに置いていた時計を見ると夜中の2時を少し回ったところでした。シャワーを浴びようかどうしようかと迷っていたら、カチャリ、と音が聞こえたんです。

 なんだろう? そう思ってベッドから起き上がると浴室のドアが開いた音でした。そのままドアを閉め直し、シャワーは明日の朝浴びることにして、もう一度ベッドに寝転がりました。

 そして、目を閉じてしばらくすると、カチャリ、とまた音がするのです。

 変だな……ぐらいには思いながらも、もう一度ドアを閉めました。今度はちゃんと閉まったことを確認してノブを引っ張ったりしました。

 そして、ドアに背中を向けたとたん、カチャリ、とまたドアが開いたのです。

 さすがに気持ち悪くなって、ベッドのまくら元に飾ってあった額を動かしてみたんですよ。

 そしたら、その額の後ろにお札が貼ってあったんです。黄ばんだ紙で、壁にべったりとくっついてました。

 もうそれを見たら、その部屋にいるのが怖くて怖くて。普段、そんな話なんて信じてないのに、いざ自分の目で見てみると怖いもんですよ。

 荷物をまとめて部屋の電気も消さずに飛び出したんです。

 フロントに行って、部屋を変えてくれるように頼みました。しかし、どこの部屋も余ってないとの返事で、フロントがこう言ったんですよ。

「お客様の部屋が最後の一室でございます」

ってね。

 それをきいて、そのままホテルをチェックアウトしたんです。そうです。夜中の二時過ぎに。

 それからマンガ喫茶に行って夜を明かしました。


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というお話でした。
どうでしょう。
少しは涼しくなるお手伝いができましたでしょうか?

ちなみに、このお話、すべて実話です。











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by hachigatu_no_mure | 2014-07-29 21:40 | 小説 | Comments(0)

ある和解

   ある和解

                                        野元 正

 今年、弟浩二から年賀状が来なかった。耕一は元旦の朝、毎年少しずつ減っていく年賀状にちょっとした淋しさを感じる。

黄泉の国へ旅立った友人の賀状がこないのは、訃報を聞いたときの悲しみをもう一度心に甦らせ冥福を祈るしかない。

また、この何年かの間こちらが出したのに、あっちから来なかったり、互いにてれこになり、ようやく折り合いがついて来くなった年賀状は、ほっとした気持ちもあるけれど、心の片隅が冷える。

なかには、今年限りで年賀状の交換は辞めるとはっきり宣言したものもある。これは一方的でなぜか絶交を告げられたようで哀しい。静かにそして自然に途切れる方が余韻があって耕一の心に馴染む。でも、米寿を過ぎた高齢の方からのこんな賀状は、ああ、面倒をかけてしまったと、神棚に上げて今までの厚情に感謝したくなる。

浩二から、二月に入ってメールがきた。

 

年賀状ありがとうございました。

御無沙汰いたしております。お元気にお過ごしのことと存じます。思うところがあって今年から兄貴あて年賀状は辞めました。

悪しからずご了承ください。

私もあと4年で70歳、思うところあって、身辺の整理等を含め自身を振り返っております。

思い起こせば兄貴と兄弟として過ごした14年は終戦から4年経った、貧しい母子家庭の中での時代だったと記憶しています。私の脳裏の中で当時のいろいろな思い出が錯綜しており、複雑な気持ちです。

兄貴と疎遠になって約半世紀の年月が過ぎ、「何故だろう」と考えた時に原因は私の少年期の振舞いや母の入院・死去・葬儀等での私の言動が兄貴の怒りに触れたと理解しています。

人間として肉体的にも頭脳的にも形成されていない少年期の私は、母とある出来ことがあり、当時、母とは複雑な気持ちで接していたのは事実です。今、考えれば母は人間として、一人の女性として、母として大変素晴しい人であったと思うと同時に誇りに思っております。

弁解するつもりはありませんが、こうした私の心境を兄貴に伝えることで自分自身の気持ちの整理が出来るのではないかと思いますので、ご理解いただければ幸です。今は反省と感謝で残りの人生を静かに過ごすことが出来ればと考えています。60数年間の兄貴の存在に心から感謝申し上げます。

 

母は小柄だが、髪は黒く、色の白い丸顔で近所の人から美人だね、と言われていた。耕一もそう思って誇りにしていた。母の仕事は建築設計事務所の下請けで、建築や土木や公園設計のトレースだったが、「目が痛いわ」と言いながらまだPCなどがない時代であったから、どうにか親子が食べていけるだけの収入はあった。

父がいない家庭で、母は父でもあったが、耕一は秘かに母に恋していた。

「今日はお休みよ。もう少し寝ていたらいいわ」と母は眠っている浩二の額に手をおいて言った。耕一はこんなやさしい言葉をかけてもらったことがなかった。羨ましい。耕一は必死で縁側の陽だまりにいる母に膝枕をねだり、耳掃除を頼んだりした。頭に伝わってくる母の大腿の温もりと柔らかさは、母の匂いとともに今も覚えている。

「あなたはお父さんの代わり、甘えてばかりいないで、しっかりしなければね」

 母は耳かきが終わると、容赦なく膝を外した。耕一はすとんと、縁台の冷たさを感じる。

 

 耕一が中学二年になったとき、母は耕一と浩二の英語の家庭教師だといって同僚の一級建築士の男を連れてきた。

母はなぜかとても嬉しそうだった。言葉遣いも態度も普段とは違ったし、黒のタイトスカートの丈が少し短いように思えた。

 ある日、学校から駆けて帰って縁側から部屋を覗いたら、母はその男の身体の下にいた。

 気が付くと、耕一は家の近くの原っぱを学校に向かって走っていた。母の白い大腿が浮かぶ。息が苦しい。胸が何かもやもやしたもので一杯になった。

 それから、耕一は男の来訪を玄関で必死に阻止するようになったが、その辺は後ろめたい気持ちもあったのか、はっきり覚えていない。弟浩二も一緒になって玄関や縁側の鍵を閉め回った記憶もおぼろげだがある。

 今になって考えれば、父のいない母の淋しさは理解できるし、許せることかもしれないが、そのころの耕一の心は煮えたぎっていた。漫画に出てくる騎士になったような気分で母に男を会わせてはならないと思った。

 母は子供たちに気づかれ、男と別れる決心したようで、「ごめんね」と耕一に絶縁の手紙を見せてくれた。母の草書体の字はほとんど読めなかったが、母の気持ちは伝わってきた。

 そのとき、浩二が何かを叫びながらその手紙を引き裂いたような記憶の断片が残っている。あの手紙を破く音は、裂ける浩二の気持ちに重なる。耕一も同じ気持ちだった。

 縁側から射し込む夕陽が、内側の明かり障子を真っ赤に染めていた。

 正月に近い十二月、浩二は、家の隣の神社の賽銭を同じ学校の友だちでないダチと呼び合う中学生と一緒に盗んで警察に補導された。

「警察に浩二を引き取りに行くの。付いて来てお願い。お父さんの代わりよ」

 母は耕一の目を見て言った。行きたくない。浩二の兄でいたくなかった。

「ひとりで行けば……」

 耕一は心のなかで、一緒に行ってもいい、という気持ちもあったのに、自分も同類に見られるのが嫌だった。

母は哀しそうな目を耕一に向けて、

「たったひとりの兄弟だよ」

と目に涙をためて言った。

 結局、母独りで出かけたが、耕一はそのあとを追い、署の入り口に立つ警察官の傍らで、母と浩二が出てくるのを待った。

「中で待ったらいい。暖かいよ」と警官は長い警棒の石突きでトンと床を叩いて言った。

とても寒い日で雪が降り始め、樹々やアスファルトがうっすらと白くなった。

 

 家に帰って来た母と浩二に、耕一は一言も話しかけなかった。「すまないね」と母は言ったが、耕一は自分には関係ない、どうでもいいことと思いたかった。

 何日かして浩二は家からいなくなった。

それから耕一はずっと浩二に会っていない。だから、彼のなかで、浩二は中学生のときのままだ。

 

耕一が大学に入ってすぐ、安心したように母は入院した。末期癌だった。

「癌です。告知されますか?」中年の少し小太りで黒縁眼鏡をかけた医師は、耕一に訊いた。耕一は肯かなかった。恥ずかしいことに癌という恐ろしい病気を知らなかった。母は日増しに衰えっていった。チョコレート色の吐瀉を繰り返して痛がる母。背中や足をさすることはどうにかできたが、下の物の処理を息子にさせることは頑なに拒んだ。痩せて骨と皮だけの身体は、食べ物は一切受け付けなくなったが、尊厳は守っていた。

輸血で見せかけの安息のひとときに、アイスクリームを食べる。

「美味しいわ。ありがとう」

目を細め遠く眺めたら、痩せ過ぎたせいか顎の骨が外れて、ああ、と目が白黒に裏返る。外科の先生が駆けつけて、母の顎は戻った。

その間、叔父を通じて何回も連絡したのに、浩二は一回も病院に来なかった。

「しつこいぞ。ちゃんと連絡してる。俺を疑うんか?」

叔父は苛立った。母は、浩二は? と一言も訊かない。耕一は来ない浩二を憎む。

枝垂れ桜が散るころ、母はひとしきり苦しんだあと、

「あなたは冷たいから、あたしの命日を忘れないようにね」

と耕一の誕生日に逝った。

浩二は葬式にも来なかった。

 やがて浩二は母命の刺青を焼き消し、叔父の会社に就職、結婚し、男と女二子の父親になったことを人づてに知った。

 

 四十五年が経った。

 浩二は遠く北の地で生きている。叔父から住所やメールアドレスを聞いたのか、いつからか毎年の年賀状とメールが時どき届くようになった。文面は当たり障りのない時候の挨拶だった。耕一は一切返事をしなかった。

 しかし、今年は違う。耕一は返信のメールをした。

 

  突然のメールに驚いています。まだ断捨離には、早いと思います。どこかお悪いのでしょうか? 覚悟のメールのように感じました。お元気で過ごされますよう遠くから切に祈っています。
私も年です。娘から身辺整理をするよういわれていますが、なかなか着手できずにいます。貴方からのメールでお互いにそういう年齢に達したのだな、同慶の至りと喜ばねばならないと思っています。
 昔のことは忘れました。母は私にとっても忘れられない素敵な母だったと思います。それに母は貴方を私より何百倍も愛していたと今も思っています。
これからも楽しい刻をお過ごしください。

 

  メールを送った途端、耕一の両肩に重くのしかかっていた何かがすっと飛び散った。

                  了

    (400字詰め原稿用紙約10枚)

 

 

 

 

 

 

 

 


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by hachigatu_no_mure | 2014-05-01 01:06 | 小説 | Comments(0)

十年目

 

   十年目       

                野元正

 

「十年が経ったわ」

 女は言った。男も早いもんだな、と心のなかでおもったが、言葉にしなかった。

月光が女の黒髪を艶やかにうねらせる。月は中天から少し東にある。

「あきた?」

男は、何に飽きた? と訊かれているのか、わからなかった。女にまだ十分未練があった。しかし、女がこのごろ、少しわがままになったような気がしている。

かつては京都の町を一日中歩いても、

「いくら歩いても疲れないわ。あしたの朝まで歩いていましょうよ」

なんて言って男の心を暖かくさせた。

「あまり歩かないつもりでヒールの高い靴を履いてきたわ」と、今は京都を歩くことが好きな男に平気でいう。確かに女は背が高く、足もすらっとしている。ハイヒールとタイトスカートが似合う。でも男は最初の頃、そんなにおしゃれしてどこへ行くつもりだい? とからかった。そのせいか、女は普段着のような格好で来るようになった。男は女のTシャツ姿が好きだった。

近ごろ電話の最中に突然、

「私の言ってること、聞いてくれてるの?」

 と激高することが多くなった。男は電話の向こうから聞こえてくる、言葉の弾丸にたじろいだ。

男も男で荷物を持つのが嫌いな女のために、「持とうか?」と声をかけることをいつの間にか忘れている。そう言ったとき、振り返る女の横顔が気に入っていたのに……。女の前で他の女との思い出を話題にして、「最低ね」と言われても平気になっていた。

 

「今夜どうする?」

「帰るわ。だって寒いもの」

 女はそう言って男のコートのポケットに手を突っ込んできた。冷たさが男の手から温かさを奪った。男は全身で暖かくなりたいとおもっていたのにあてが外れる。その獣めいた気持ちを悟られまいと、潜り込んできた女の手にそっと暖かい手を添える。女はさり気なく手を引いて男の手を外した。それって、ごめん、わたしも……、でも今夜は……ね、という軽いいなしであろうか。

 冬の月を観よう、それが今夜、男が女を誘った理由だった。男にとっては経営する建築設計事務所の決算の目途もついてほっとした時期でもあった。女は夫の出かける日がいいとか、春の装いがどうだとか、と言いたげだったが、月は待ってくれないよ、と無理強いした。秋の紅葉、初夏の桔梗など季節毎に訪れた東福寺の山門は、月光に逆らう闇になお一層黒々と浮かび上がっている。冬の月光は空気を凍らせる力があるのか、二人の足音さえ、ひたひたと乾いた音を立てた。

 

 女とは、売れない画家が主宰している絵画教室で知り合った。仕事で設計意図を客に説明するパースをもっとうまく描きたいとおもったのがきっかけだった。女はボタニカルアートのように花や実を描くのが好きだった。そんな絵は嫌いだ、絵じゃない、と男は内心おもっていたが、口には出さなかった。

 ふと、なぜか、野坂昭如の『火垂るの墓』が原作の絵本の一場面が、画像となって浮かんだ。空襲で六甲山の麓まで焼け野原となった神戸。黒煙にけむる石屋川の畔に御影公会堂がぽつんと焼け残っている。三両連結の阪神国道電車も燃え尽きて立ち往生していた。

でも、その絵は嘘なんだ。現実とは違う。公会堂の東に接して今もある、迷彩を施されたNTTのビルは焼け残ったという。絵本は空襲の激しさとその被害の甚大さを訴えるためにNTTのビルを絵から省いた。そう、そのビルがあったら、絵は台無しさ。男は花びらや葉の形を正確に描くのは、絵画ではないとおもっている。何処かを省いてほしいともおもった。女は飽きもせず花びら一つひとつを、葉一枚いちまいを丁寧に描いた。

 男は考え方は違うけれど、その執念のようにただ見たままを正確に描こうとする女のひたむきさに、少し怖さも感じながら惹かれた。もちろん、自分には妻子がいる。女は、子どもはいない、と話した。

「あなたが設計したところへ行きたいわ」

 男には引っ込み思案のところがあったが、女はそう言って、うまく誘ってくれた。

 

十年間、ふたりはひたすら会った。初めは会う理由なんていらなかった。女は日記をつけていて今夜は何回目の夜だ、とも言った。初めて泊まった夜は大雪だった。朝早く起き出して雪原に足跡を付けに行った。雪を被った樹樹の煌めきにふたりの未来は輝いているようにおもえた。

何百何十回と数えて、今夜は何回目なんておもいたくないと男はおもう。たくさん会った。それでいい。舞台もどこでもよかった。

女は場所も記録し、行った先のパンフレットや入場券などをクリアファイルに整理しているというが、決して誰にもわからないところに隠しているから安心して、いずれ十年経ったら処分するわ、と言っていた。

男も女もふたりのことは墓場まで秘かに持っていくことにしていた。このことで誰も悲しませたくなかった。ふたりは充分過ぎるぐらい周囲に注意を払った。携帯電話のやりとりは即刻削除した。互いに都合が悪くなれば、会話の途中でも容赦なく切った。手紙は決して出さない、ふたりの写真は決して撮らない、と取り決めていた。

十年のうちで、一度だけスカート姿の女がとんでもないことを言い出したことがあった。

前の日からずっと一緒にいた後、女の家に近い一駅前で電車を降りて送って行ったときだった。今日と同じ二月だったが、全くの闇夜だった。寒さが足下から這い上がってくる。ふたりは肩を寄せ合って歩く。

突然、誰とも出会うことのない闇が詰まった横道に、女が男を誘い込んだ。

くるっと、腰を九十度に曲げて民家の暗い塀にに手をついて後を向きになった。

「どうしたの?」

 男は察していたが、訊いた。男も女の気持ちに刺激されて次第にはやる。

 次の瞬間、民家の窓に明かりが灯った。

 闇に白く見えた女のうなじが灯に色褪せた。

 

 東福寺からバス通りへの道は、甍が光る小さな黒い門が続く塔頭の街を過ぎてやがて、両側に仕舞た屋が軒を連ねる。まだバス道までだいぶ遠い。

月光は森森と降り注いでいる。光が跳ねる道は濡れて見えた。ふたりは言葉を失って、凍え乾き始めている。女は男の手から温かさを奪い、男の心を凍てつかせた。

「しばらく会わないでみる?」

ついに男が予期していたことを、女が口にした。わたしから絶対言い出さないわ、別れるなんて、つきあい始めたころからよく言っていたのに……、十年目で言った。

光る道を黒猫が横切った。本当は黒猫であったかはわからない。月光がそう、男におもわせた。男は立ち止まって猫の後を目で追う。猫は道を渡りきると、ふたりの様子を窺うように振り返り、光る目を向ける。

男は女に応えないでまたゆっくり歩き出した。

「ねえ、どうなの? 返事をしてよ」

 女の声が後から聞こえた。

「ああ……考えておくよ」

 男はちょっと邪魔くさそうに言った。

 細い道の交差点を右に曲がると、小型ダンプや工事車両が止まり、多くの黒い影が月光を背後から浴びて動き回っていた。

「ここは通行止めです。まっすぐ行ってください。次の路地で曲がってください。少し遠回りですが、お願いいたします」

 赤い点滅の誘導棒を持ったガードマンが寄ってきて告げた。ふたりの行き先も聞かないで遠回りだとわかるもんか、と男はおもったが、例によって黙っていた。防寒服で着ぶくれした彼のヘルメットの下の顔は、意外と若い。学生アルバイトかもしれない。

「バス道にはこっちが近いの。急いでいるの。あそこをちょっと注意して抜ければいいでしょ? 通してくださいな」

 女は男を責める、例の電話の口調で点滅を繰り返すコーンとコーンを仕切ったバーと民家の間の隙間を指さして言った。

「いや、危険ですから……、監督さんはオーケーせんですよ」

 ガードマンも責務に忠実だった。

「どうしたんです?」

 男は訊いてみる。

「この辺は古いガス管なんです。ときどき、車の重さでおれるんス。今夜中にやってしまわなきゃならんのです」

 小型のユンボがダンプに掘削した土を積んでいる。心なしか辺りにガスの臭いがする。

 

 月は中天にかかっている。

「遠回りします」

 男は言った。その言葉と同時に、女は月を仰いだ。白い顔がさらに青ざめ、唇をきりっと結んだのがはっきり見える。

 男は女に話もせずに交差点に向かって歩き始めた。

「どうして? もう少しで通れるところだったのに……」とまた女の声が追いかけてきた。

かまわず歩いた。月光を受けた影法師が短くなりつつある。

「急がなくてもいいじゃないか。もうこれっきりかもしれないのだからさ」

 男は振り返り、逆光で表情がわからない女に言った。

「電車がなくなるわ」

 女の声が顔の影から聞こえた。

「かまわないじゃないか。どこかに泊まればいいさ」

 男が言うと、女が首を振った。揺れ動く黒い影を月光が白く縁取る。

 遠くからダンプに土を積み終えた合図の警笛が聞こえた。

 男は仕方なく歩き出す。寒さがつま先から這い上ってきた。

女の影が男の横に並んだ。もう一度女の手がコートの中にさし込まれ、男と手をつなごうとしてさ迷った。

 月は中天を過ぎた。

                 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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by hachigatu_no_mure | 2014-04-06 20:31 | 小説 | Comments(0)